:::恩師からのメッセージ
恩師の方々からのメッセージや、中嶋先生からの「デュッセル便り」

恩師からのメッセージ

恩師へのメッセージをご希望の場合は、事務局までお送り下さい。転送いたします。

1971年〜1975年着任

岡田 裕 先生(1971年1月〜2007年1月、事務局長、2007年1月更新)
伊藤 勉 先生(1971年4月〜1974年3月、校長、2006年12月寄稿)
岸本 悟 先生(1971年4月〜1974年3月、教頭、2007年7月寄稿)
中嶋 総雄 先生(1972年4月〜2003年4月、2006年12月更新)
宮崎 恒信 先生(1973年4月〜1976年3月、校長、2007年7月寄稿)
光吉 雅之 先生(1975年4月〜1978年3月、2007年7月寄稿)

1976年〜1980年着任

田中 康善 先生(1977年4月〜1980年3月、2006年12月寄稿)
山口 荘一 先生(1979年4月〜1982年3月、2007年8月寄稿)

1981年〜1985年着任

1986年〜1990年着任

神谷 乗仁 先生(1988年4月〜1991年3月、2007年10月寄稿)

1991年〜1995年着任

1996年〜2000年着任

木野 和也 先生(1999年4月〜2001年3月、2007年2月寄稿)

2001年〜2005年着任

2006年〜2010年着任



岡田 裕 先生(1971年1月〜2007年1月、事務局長、2007年1月更新)

デュッセルドルフ日本人学校に係わった皆様方へ

 2007年新年に当りデユッセルドルフ日本人学校に係わった皆様方にとってこの年が一層のご発展とご多幸の年になりますよう念じます。当方2007年1月末に帰国します。多くの方々にお世話になり本当に有難うございました。

 1971年1月29日、(後刻初代理事長になられた)当時の三菱商事の田子勉社長から、オペラハウスの隣 にあった同社の社長室で学校設立に関するそれまでの経緯を伺ったあと、その場で「日本政府あての報告 書」作成を指示されて全日制日本人学校設立準備委員会に採用された事を知り、最初の課題の大きさ に腰を抜かさんばかりに驚きながら2月からシャドウプラッツにあった日本商工会議所の一角で仕事を始めた 岡田です。
 爾来丸36年。2007年1月初めに私は満65歳になりますので同月末日を以って内規に基き「定年退職」 します。ドイツでは満65歳になった日を以って定年退職するのが普通ですが、本校では2001年度に「定年 退職制度」が出来ましたので、((2003年4月末日を以って定年退職された中嶋総雄先生と同じように) 退職します。この規定は2002年度発行の「学校要覧」から「学校運営規則」の第9条に、「現地採用教 員と事務部職員(含、現業職員)は満65歳になった月の月末日を以って定年とする」と掲載されています。
 2006年12月末時点での36年間の在籍生徒数は延べ8340名。(現在の在籍児童生徒数550名含む。) また中3卒業生総数は…2007年1月16日の第36回(仮)卒業式時の46名(男女夫々23名)を含めると …1499名になります。1971年4月開校時は43名(小5−中3)、それから1992年4月の丁度1000名の頂 点に達したあと、翌年から一気に約100名近い生徒の減少が始まり今では最盛期のほぼ半分の550名。 生徒数の「興亡」と校内の「喜怒哀楽」は、「ナイナイ尽し」の草創期から携わってきた私には今となっては貴 重な「思い出」です。
 これまで長い間に亘って精神的にも物理的にも御支援下った内外の多くの方々にこの場をお借りして心か らのお礼を申し上げます。

 昨年からの2年間、本校と直接、間接 に関係のあった施設に大きな変化があり「建設関係」での一連の動きに不思議さを感じていました。以下 列挙します。
  1. 1971年の開校年、仮校舎として1973年3月まで小5〜中3までお世話になったカトリック教会の付属施設の”CANISIUSUHAUS”が昨夏から取り壊され始め、今年その跡地にごく普通のアパートが建てられました。近隣の住人に聞いた処、教会ではこのような施設を維持して行ける財政が許されなくなったのでしょう、と言う事でした。私にとっては忘れる事の出来ないあの地の、あのカニージウスハウスの、その 影形も全く無くなりごく普通のWohnungが建っている光景を見た時は本当にショックでした。
  2. 本年(2006年)夏、開校2年目に小1〜小4まで1年間午後お世話になった"DON BOSCO SCHULE" のレノヴィールングが終了、一派遣の先生が学校を代表して祝典に参列。(尤も外から見る限り何処 がどうレノヴィーレンされたのかよく分りません。)
  3. 本校開校年の1971年11月から73年3月までの1年4ヶ月、理科室(生物、化学、物理室)を貸して 下さったり、1995年10月に本校の創立25周年記念式典や記念演奏会の会場としてその講堂を提供 して下さった姉妹校の"市立 CECILIEN GYMNASIUM”の校舎改築落成式が2006年5月12日 実施。敷地内でも講堂でも校舎内でも改修の跡が見られ大変綺麗になりました。
  4. 本校とは直接の交流がそれほどあったわけではありませんが、本校とは一番近い場所に建つ市立 COMENIUS GYMNASIUM ではあのコンクリート敷設の校庭を縮小し、3連棟の屋内体育館を建設、 この11月17日に落成式を行い5年生の生徒達が屋内サッカー試合に参加しました。聞くところによると ツェツィーリエンギムナージウムでは校舎の改修と一緒に屋内体育館の改築も市に申請したけれどもこ の部分は却下され、体育館の建設はコメニウスギムナージウムに割り当てられたのだそうです。
  5. 最後に1983年8月から2001年7月までの18年間中学生がお世話になったLankerstrasse のあのレン ガ造りの校舎が本年に入って取り壊され始め、現在これまたカニージウスハウスと同じような普通のアパー トが建ち始めています。尤も外面は赤いレンガ造りです。これも毎日変化して行く光景を見る度にショック と感慨を覚えずにはいられません。
  最後に2007年1月の小職退職を目前にしての2006年11月27日(月)、ツェツィーリエンギムナージウムと本校の姉妹校締結25周年記念式典が11時から12時40分までCECI校の新装成った講堂で行われ、クリスタ・カイザー=ホェルシャー、鶴岡保雄両校長の招待状に応じられたハインツ・ヴィンターヴェルバーDSD市長、國方俊男日本総領事、神谷哲郎学校理事長による祝辞があり、厳粛な中にもリベラルな雰囲気の式典がピアノ演奏や本校の児童合唱団、ウインドアンサンブル、小3の和太鼓の演奏を交えて盛大に行われました。この式典に25年前の1981年11月26日の締結式に参列し署名された木庭(こば)清八第4代校長先生と、その時合同音楽会の指揮を取られた浅野武先生(現在浜松学院大学短期大学部学部長、学長代理)のお二人が日本から参列され多くの方々からその意義が讃えられました。

 またそれに先立つ11月24日8(金)には音楽科の星野高夫先生のアイディアで、開校以来初めてCeci校 生徒と本校生徒の合同音楽鑑賞会が3部に亘ってCeci校講堂で開かれ(合同は2部と3部)、27日の 式典に招待されて矢張り日本から来村した本校校歌作曲者の杉谷昭子さんのピアノ演奏を楽しみました。 (詰まらない事を詮索する人のために一言。3人の飛行機代は御招待といっても全て自己負担でした。)

 以上、退職を控えてのご挨拶方々近況、近辺報告です。

伊藤 勉 先生(1971年4月〜1974年3月、校長、2006年12月寄稿)

 デュッセルドルフの想い出と言えば数限り有り、言葉に言い尽くせないほど私の心を埋め尽くしています。わが人生76年中僅か2年間のデュッセルドルフ日本人学校勤務の滞在が今の心の大半を占拠しているといっても過言では無いでしょう。
 1971年4月、岸本悟先生と初めて飛行機に乗り赴任した西ドイツの町は静寂そのもの。不思議なくらい子供の姿が見られませんでした。
 以後は欧州最初の日本人学校創設に邁進して初年度に日本から派遣された五名の先生共々息つく暇も無かったことを記憶しています。学校の方は年々発展を続け隆盛の一途を辿りましたが、残念ながら先生で今生き残っているのは私と岸本先生のただ二人。村瀬夫妻先生と木下崇先生のお3方は既に十数年前になくなられています。幸せなことに第2年度派遣の中嶋総雄先生は任期終了帰国後再び彼の地に渡り、2003年定年退職まで中学部長としてご活躍されたことは諸氏ご存知のことでしょう。また1971年創立当初から学校発展の為ご尽力された岡田裕事務局長さんも来春定年退職とか、お二人の生き字引が相次いで引退されることに一抹の寂しさを感じ得ません。
 創立以来36年、この間多くの諸先生と派遣オリエンテーションで、また帰国歓迎会でお会い致したことも良く覚えています。
 私は帰国以来3度にわたる母校訪問や、3年毎に市長さん主催「デュッセルドルフの夕べ」が東京のホテルで開催され、かって彼の地で活躍された方々の集いに毎会参加させて頂き、いつも市長さんと一緒に写真を撮ったことや、1昨年から今年の11月までにデュッセルドルフ市と千葉県が友好関係締結を祝してエルビン市長と堂本知事がアルトビァで乾杯されるパーティに2度も招待されたたことなどが、ますますデュッセルドルフとの想いを深めていったと存じます。
 10年前同窓会創立のお手伝いが機縁となって事務局を担当させて頂いてからは、皆さん方の同窓会入会手続き処理と情報管理およびデュッセルドルフ日本人学校との連絡、総会時の雑務処理などをしています。これらの作業を通じて母校の最新情報を修得し新たな気概を醸し出しています。今の生甲斐はこれらデュッセルドルフ関連活動にあるようです。

岸本 悟 先生(1971年4月〜1974年3月、教頭、2007年7月寄稿)

デュッセルドルフ日本人学校同窓会の皆様へ

 私、岸本 悟(さとし)は、デュッセルドルフ日本人学校創設と同時に赴任した鳥取県出身です。若干39歳の青二才の身ながら、初代教頭として、当初の2年間は、初代校長:東京都出身の伊藤勉先生、そして3年目には、2代目校長:富山県出身の宮崎恒信先生の下で、学校基盤づくりに携わった。
 デュッセルドルフは、日本企業欧州進出の拠点地だった。そのデュッセルドルフ日本人社会の子弟教育のメッカとして、日本人学校は力強くスタートした。36年前のことである。欧州での最初の日本人学校であり、政府はもとより、現地日本人会の期待を一身に受けての発足当時を、私なりに振り返ってみよう。


1 伊藤 勉先生と一緒に着任した初日の様子から 〜現地到着後の過密なスケジュール

  昭和46年(1971年)4月18日(日)午前7時丁度(日本時刻同日午後三時)東京都出身の伊藤 勉先生と共に、先陣として(3名の派遣教員は後続)デュッセルドルフ飛行場に到着した。
 飛行場では、現地日本人会長をはじめ日本人学校理事長(三菱商事欧州支店長)、副総領事、学校関係者などの出迎えを受けた。早速、ベンツに乗せられて、日本人学校理事長宅へ直行する。理事長宅で思わぬ日本食の接待を受けながら、現地における日本人学校が、創設に至るまでの現地報告を受ける。そして、4日後には、後続の派遣教員を待たずに開校式実施に向け、ことが運んでいるという具合であった。その後、開校式についての具体的な話し合いが休みなく続いた。
 二人が解放されて、ホテルに着いたのは夜中を過ぎ、疲れきった体でベッドに横たわったのを、今でもはっきりと思い出すことができる。


2 開校式あと3日後に迫る 〜到着:4月18日、開校式:4月21日

 全日制日本人学校を期して、現地日本人会の強い要望と努力の結果、実現したこの創設校勤務の責任の大きさを痛感しながら、着任翌朝から分刻みの過密な日程が始まった。
<開校式準備に向けて>
○ 開校式に最小限の必需品の調達 〜市内の日本商工会議所から借用
   日独の国旗  式幕  式次第書きの模造紙  筆  墨など
○ 仮校舎となる建物の下見、打ち合わせ 〜ライン川沿いの市電に近い教会所属建物を借用
   教会借用規定  申し合わせ事項の確認  教会施設・設備の把握と使用要領など
○ 式場の諸準備 〜式場は仮校舎教会の講堂を使用
   ステージの飾りつけ  式次第・式幕張り  参列者席設定など
 上記の諸準備は、校長と私及び学校事務局専従の岡田さん(上智大出身、後の学校事務局長)の3人で当たった。しかも、商工会議所と教会を毎日何回となく往復しながら、市電を利用して実施した。


3  開校式から後続派遣教員を迎えるまで 〜4月21日〜4月25日まで

○ 待望の開校式が盛大に行われる(4月21日) 〜この様子が日本のNHKで放映される。
  初年度のデュッセルドルフ日本人学校は、ドイツ政府が、小5〜中3までしか認可しなく、小4以下は次年度の認可となり、開校当初の生徒数は43名でスタートした。その後、年次を追って159名、232名、324名・・・と増加の一途をたどる。
 開校式の来賓は、有本総領事をはじめ、日本からは、財団の寺中専務理事を迎え、現地日本人社会要人の臨席の下に、学校関係者、学校父母会全員の出席を得て、欧州唯一の日本人学校として、そして日本経済の拠点地発展の幕開けとなった。
  <開校式の式次第>
    一 開会の辞
    一 学校理事会代表挨拶
    一 先生の挨拶
    一 来賓祝辞
    一 児童・生徒代表挨拶
    一 閉会の辞
 (来賓として有本総領事、海外子女教育振興財団寺中専務理事、岩井日本人会会長、楠川富士銀行支店長など)
 この過密日程の中、後続3人の派遣教員の住居探しに、前述の伊藤、岡田、私の3人で、連日足を棒にして物色に専念した。


4 第一学期の校長と私の住居は、計画的に転々と移転する 〜4月18日〜7月1日

○ 着任当初はホテル住まい:二人が同室 〜4月18日〜4月23日
 校長、教頭同士が同室の共同生活、異国のホテルでの日常生活から市内見物、買い物、散歩など田舎育ちの私には大変好都合、また、本務の学校運営に関わることについては、日常的に話し合いができ、私には意義深い好スタートとなった。

○ ホテル住まいから二人とも同じ下宿の二階に同居 〜4月24日〜4月30日
 加倉井副理事長夫妻の計らいで、加倉井宅に程近いフイターク家で1週間過ごす。両親と二人の高校生の4人家族で、フラウ・フライターク(フライターク夫人)は、働きもので私たちの世話をよくしてくれた。夕食後はいつもリビイングルームで、テレビを見ながら夫妻と楽しく談笑した。
 フライターク家の印象の思い出として・・夫妻の案内で、近くにの教会食堂でビールを飲みながら会食したことがある。常連の仲間が集まって、ビールのコップを何回となく飲み干しながらトランプゲームに興ずる。このドイツの長い夜を満喫する風習に浸った思い出は忘れられない。その後も下宿生活中、伊藤先生とは度々この食堂で食事を共にしたものである。
 なお、フライターク家の思い出で、強く印象に残っていることは、フライタークの娘ギズラーの誕生祝に参加した時のことである。誕生祝会場はフライターク家の地下室であった。地下室の側面壁は、どきつい赤ペンキで塗りたくられ、車のがらくた席が無造作に置かれた中で、音楽がじゃんじゃん鳴り響く曲にあわせてエロチックにエネルギシュに朝まで踊りまくる十代の青年男女・・ドイツでは15歳になれば、親は全く無干渉。ギズラーとそのフアンセを中心にして、本当にほとばしる若者の狂艶ともいえる実態に唖然としたものであった。

○ 二人のホテル住まいから離れて、私だけ別個に下宿住まい 〜5月14日〜6月30日
 伊藤校長の下宿から少し離れた、両親と娘の3人家族のアーランド家で、一ヶ月半を過ごす。
 夏休みを迎えるまでのこの期間は、今までの二人の生活から独りだけの下宿住まいとなった。学校の日常も一ヶ月近くともなれば、多少の支障はあるものの落ち着きもでき、正常な学校運営への態勢となってきた。一方、私にとっては、何と言っても、夏休みに家族を迎えるための住居の確保が急がれることである。このことは伊藤校長も私と同様である。以下に夏休みまでの一ヶ月半の特に目ぼしいことだけに限って述べてみたい。

<主として学校関係>

○ 派遣教員5人の申し合わせ事項・・・父母会を通して申し入れする。
 ・児童・生徒の家庭教師は一切お断りとする。父母からの贈り物もお断りする。
 ・派遣教員以外の講師、現地採用教員、ドイツ語講師、ハウスマイスター等との連携、連絡調整等の配慮には、重々留意する。

○ 教会の附属建物借用の仮校舎の日本人学校・・この0(ゼロ)からの学校づくりに対して
 現地日本人会、総領事館をはじめ、学校理事会、商工会議所等の肝いりで、現地進出の日本企業・商社等(当時の進出企業:約170社)からの応分の援助がもたらされたことはいうまでもない。
 ・・こうして、チョーク一本もない状況から教材・教具の必要限度内の物品が整い、児童・生徒は、日本の教科書(海外子女教育振興財団からの無償提供)を手にして、毎日嬉々として授業に専念した。

○ 学校理事会の努力
 初代田子 勉理事長(三菱商事欧州支店長)の率先されての創設当時の学校基盤つくりの並々ならぬ献身振りには、頭が下がる。大手の商社支店長としての多用の中、理事長自ら派遣教員を招集され、膝を交えて相談相手になっていただく。そして度々会食の恩恵に預かった。校長と教頭の二人を相手にされたことも時にはあった。ともかく、学校経営に支障なきよう全面的な温かい支援の手を差し伸べていただいた。

○ 現地ドイツ人社会に対して神経を使ったこと・・静けさを求めるドイツ事情からは当然のこと
・仮校舎のカニジュースハウスでの休憩時間・・運動場もない狭い中庭での遊び声(昼ね時)
・広範囲からの電車利用通学・・車内でのマナーの悪さ、友達同士で騒ぐなど
*この2件につては、時々学校にрェあり、一時は問題になりかけたこともある。

○ 初回派遣者5名の住居確保
 学校関係役員夫妻をはじめ、日本人会役員、父母会、岡田事務局職員等の方々には、市内のあちこちを情報をもとに下見しながら、夏休みを迎えるまでの一学期中、大変お世話になった。特に伊藤校長と私(岸本)は、夏休みに家族(子供同伴)を呼び寄せる関係もあって、随分と親身になってお世話をいただいた。また、住まいが獲得できても、家具の購入が必要となり、商店への付き添いから、家具類の運搬、そして、住居内の取り付け工事等の面倒を、快く引き受けていただいたことは生涯忘れ得ない。

<付記として>

 全日制日本人学校が実現に至るまで、その前身として日本語補習校からの人脈として、岡田裕学校事務局職員(後の事務局長)、そして、夫人の中では、初代の加倉井学校副理事長夫人には、創設期に顕著にご尽力いただいた人として忘れてはならない。独語に堪能な岡田さんは、創設期の多岐にわたる事務量の中にあって、渉外を一手に四六時中電話のやり取り、職員身辺のこと、理事会、父母会のことなど、寝食を忘れての日常であった。加倉井夫人についても、短年間で帰国される夫人と違って、古くから現地に生活根拠を持たれ、ご主人と共に日本人学校設立の立役者と言われていた。現地日本人社会の生き字引であり、創設当時の学校教員には、身軽にいろいろとお世話をしていただいた方であった。伊藤校長と私は、着任と同時に、ホテ ル、下宿等の世話を手厚くして下さった。週末には、伊藤校長と訪問して度々ご馳走になった。

 以上、プライベート的なことも交えて、私の日記をもとにした創設時の第一学期の概要です。

中嶋 総雄 先生(1972年4月〜2003年3月、2006年12月更新)

ランカー校舎で学ぶ

 日本人学校について語られるとき創立当初のことが多いです。これは無から有を生み出す過程の苦労の多かったので当然ともいえましょう。今回は1983年以降について述べてみます。
 当時日本人学校は1975年、79年の増築にも拘わらず児童生徒数の急増で収容能力の限界に来ていました。そこでひとまず次の増築まで中学部がランカー通りの中庭にカスタニエンの大木のあるドイツ人学校を借りて移転しました。(まさかそれが約20年間続くとは思いませんでした。)移転当初の中学生の感想は運動場がない、暗い感じがするといった負の捉え方が多かったです。しかし中には同じ世代のものが一緒に学べる喜びもありました。そこで私達は中庭でのボール遊びが出来るようにフェンスの設置を理事会に要請し、また各学年に新しい学校造りに参画する意識が生まれるよう働きかけました。百年来の古い校舎も住んでみるとずっしりと重厚な歴史を感じさせられるようになりました。小さなことですが、チャイムと共に授業を始める「チャイム着席」も定着してきました。
 全く問題がなかった訳ではありません。回りの住民から何故大きな声で同じ時間に同じ曲を歌うのか。早朝の中庭でのボール遊びは騒がしいとの苦情を受けたこともあります。その都度みなでこの地の人々との友好関係をどのように構築するかを考えました。生徒会を中心に遊びを工夫し、校内生活の充実に努めてくれたことは流石でした。
 ランカー校舎に住むうちにいつとはなしに新1年生、転入生、新任の先生方から「ランカーマジック」という言葉が聞こえてくるようになりました。これはいかにもドイツらしいがっしりした石造りのランカー校舎で学ぶと、いつの間にか中学生らしい中学生になるとういうものです。ランカーで生活した多くの人達が造り上げたランカースタイルが確立したともいえます。
 ニーダーカッセルで学んだ先輩達と同様に、ランカーの仲間達も大きく飛躍して世界で活躍して欲しいと願っています。

宮崎 恒信 先生(1973年4月〜1976年3月、2007年7月寄稿)

 6/18のお便り嬉しく拝見いたしました。
 小生の場合73年4月デュッセル校赴任、新設の立派な校舎に入りました。しかし年度半ばから、児童生徒数が急増、翌年当初には6教室増築の必要に迫られるなどのこともあって、なかなかのことでした。ただ何よりも児童生徒のはつらつとした表情・行動と教職員の熱意に支えられての生活は充実感に充ちた月日でした。
 実際、収容定数超の教室で週25時間以上担当の教師もあって、国内では考えられない実態をも見ることになりました。校舎落成後1年未満の増築あるいは教員増の陳情は容易に認められず、校長も一授業に出るというふうでした。まことに多忙でしたが、教室で校庭であるいはまた郊外活動での児童生徒との交わりを懐かしく思い出します。教職員の協力もまた卓抜な現地上司の施策により、結局は万事善処されるに至ったことには格別の感銘・感謝の意を持ち続けています。
 ところで、小生デュッセルドルフから帰国後ふるさとの学校に勤務1年を経てニューヨーク校に赴任、そちらで3ヶ年過しました。着任初日から唯々驚くばかり。空港から市街地までの道路には新聞紙が散乱、マンハッタン入口の地下道は汚れて黒ずんだまま、学校は校舎というにはあまりにも狭く、児童生徒の収容力は230名が限界、職員室からはみ出した1部の先生たちは物置きや階段のおどり場に机を置いているというふうなどなど。落着けた頃には、現地当局によるチャーター問題の複雑さもあり、ここでは校長職に専念せさるを得ませんでした。「狭いながらも楽しい我が家」とばかり、喜び勇んで登校してくる児童の姿に大きな力を与えられて勤務していましたが、その後分校設立、本校校舎は小生離任後27年を経た今年4転目の段階にあります。学校とその環境、地域社会の気風いずれにおいても、デュッセルドルフはすばらしかったのにと嘆かざるを得ません。両校を比較して、卒業生の風格の差異にもあらわれるかとも思います。
 なお過日拙宅の物置きを整理していましたが、デュッセル校の記念誌、Am Rhein 等の文集・児童生徒からのお便りなどの保存箱を見て、思わず長い時間を過ごしたものです。これらの点でもデュッセルの方が多いのです。アルバム・フィルムも保存してもう30年になります。
 30年を経てと申しましたが、次に定年退職後の小生について略記いたしましょう。公立校退職後5ヶ年、私立高校に勤務。その後本籍地である現住所に帰りました。ここは山村ですが、墳墓の地というわけです。ここでは古い家の管理や庭とも藪ともけじめのない土地の整理等かなりの時間と体力を要します。ぼちぼちやっています。
 余談ながら離屋の一室には入口に刻字板”Einseidelei Hakuun”(白雲庵)、床の間に「山静かにして太古の如く、日長うして小年に似たり。」(小年・・・短かい1年の月日)の幅を掲げています。些かきざですが寥を慰めるというわけです。と申しますと小生の年令も想像なさることでしょうが、小生今年米寿を迎えました。最近難聴度が進みすっかり老人扱いされているものの、足腰だけは恙なく過ごしています。
 末筆になりましたが、同窓会の皆様のご健康とますますのご活躍をお祈りいたしてやみません。

光吉 雅之 先生(1975年4月〜1978年3月、2007年7月寄稿)

海外ボランティア活動を終えて

 海外ボランティア活動を終え、昨年10月下旬に帰国した。平成16年秋、国際協力機構(JICA)のシニアボランティアとして、南米のパラグアイ共和国へ派遣され、2年間の任期が終わったのである。
 JICAは、平成18年10月1日現在、世界80カ国へ、約3,500人のボランティアを派遣している。その中で最も多いのがパラグアイで、39歳までの青年協力隊員65名、69歳までのシニアボランティア47名が、諸分野で活動している。派遣期間は、ほとんどが2年である。活動領域は、パラグアイにおけるシニアボランティアの場合、工業、農業、情報処理、医療・衛生等に係わる科学技術分野が主だが、日系人社会で日本語教育や福祉関係の業務に従事しているボランティアもいる。
 私が所属していたのは、パラグアイ国教育文化省の教員養成局である。JICAを通して私に要請があった主な業務は、教員養成校のカリキュラム改定についての助言と、教員養成に関する情報提供の2つであった。この分野では、私が最初のボランティアであったため、パラグアイにおける学校教育の実情を把握するのも手探りの状態で始めた。毎日書き続けた活動記録を読み返してみると、初めのうちのページには、やるせなさ、焦り、憤慨というような否定的な心情ばかりを書き綴っている。思い通りに事が進まないためにストレスが強かったからだが、その最大の原因は言葉だ。気候や食事に慣れるのに時間はかからなかったが、現地語であるスペイン語ができないということは、活動をする上で致命的な障害であった。日本語はもちろん、英語さえ通じないパラグアイ人だけの職場で、スペイン語との格闘がずっと続いた。
 デュッセルドルフ日本人学校で勤務して以来、2度目の海外生活であったが、異文化の体験という点からいえば、日本の文化圏から完全に隔たった環境で単身生活を送った今度の方が、密度が濃かった。学校教育に限らず、パラグアイの社会事情全般を、一応理解する必要があったし、人々の生活に関しても見聞を広める機会がたくさんあった。要請された事項についての達成感があまりないのは残念だが、たいへん有意義な2年間であった。以下は、離任の挨拶として用意した原稿のあらましである。自分自身の言葉で、どうにか意思が疎通できるようになった同僚と別れるに際して、多少感傷的な気分で書いたことは否めないが、現在の心境も大差はない。

 「教員養成局の皆さん、いよいよお別れする日が来ました。みなさんに親切にしていただいたお陰で、無事にこの日を迎えることができたことを、深く感謝しています。パラグアイに来て間もないころ、ひどく遅かった時の流れが、最近はとても速く感じられるようになりました。現在の心境は、家族の下へ帰ることができる喜びと、皆さんにお別れする寂しさとで複雑です。たくさんのいい思い出を持って帰国できることを、大変幸せに思っています。ありがとうございました。
 この2年間、パラグアイならではのいろいろな経験をしました。緑が豊かなアスンシオンでは、1年中花が絶えることなく、ジャラカンダ、チバト、ラパッチョ、サンタリタなど鮮やかな色の花々が、移り変わり、目を楽しませてくれました。
 パラグアイの食べ物は、肉料理をはじめ何でも口に合ったので、よく食べました。バビエラ(ビール)がおいしく、アリストクラ−タやカリベなど、アルコール度の強い地酒もよく飲みました。体重が最高で5キロも増えたので、日本に帰ったら体重を減らす努力をしなければなりません。
 パラグアイの子供たちは純真で、学校を訪問するのが楽しみでした。小学生から教員養成校の生徒に至るまで、まっすぐに見つめる彼らの目の輝きが、強く印象に残っています。できることなら、1年ばかり学校で勉強を教えてみたいです。
 とりわけ忘れられない思い出は、なんといっても皆さんとの出会いです。スペイン語が話せないばかりか、挨拶などの習慣も違っていて、不愉快な感じを与えたり迷惑をかけたことがあったかもしれません。皆さんの期待に、十分に応えることができなかったと思いますが、私は楽しかったです。仕事に追われることがなく、ゆったりとした雰囲気の職場で、いつも明るく友好的なみなさんと時間を共有できたことは素晴らしい経験でした。
 今後、皆さんにお会いする機会は、おそらくないと思います。皆さんの姿は、今日のまま、少しも老けることなく、私が生きている限り、私の脳裏から消えることはないでしょう。皆さん、いつまでも元気で、幸せな日々をお過ごしください。では、さようなら」

 光陰矢のごとし。あの日から、はや8ヶ月ほども時が流れた。次の機会をうかがっているこのごろである。

田中 康善 先生(1977年4月〜1980年3月、2006年12月寄稿)

「帰国子女って!?」

 「帰国子女」という言葉も含め○○人という言葉は何を意味するかと、帰国後に考えるようになりました。国籍 を持つということで一応は定義をするのでしょうが、「心の帰属は」とか「何語を話すか」とか「どこで生まれたか」 とか……。そもそもその様な範疇を設けないで交わることが自然になる世界観を持たねばならないのだ、と 自分に言い聞かせたりもしました。長男は2才の後半でデュッセルドルフに渡り5才の後半で東京に来ました。 彼の頭の中では日本であと3年たたねば日本人にはならない。今はドイツ人だとの思いがあり、帰国後しばらく それを口にしていたのを想い出します。
 ところで「健康である」とはどんな時を指すのでしょうか。自分が健康では無いと感じると不安になりますね。 そして医師になんとか治してもらいたいと思い病院へ通う。ところが考え方を変え。健康ってことは本来無い のであり、そこそこに生活できれば、それをよしとする。すなわちその自分とどう付き合って生きていくかを 目指している時の方がよほど健康だ、と思う生き方はどうでしょうか。
 長男は日本に来てからとうに3年以上が経ちました。でも日本的な物の見方考え方ではないなと思い、彼を 見るときがまだあります。20才を過ぎてからデュッセルドルフに行った私の配偶者は、日本に来てからドイツに 過ごした年月の10倍を超えた時間を、ドイツの人々と一緒に費やす生活をしており、これまた日本人ではない 物の見方、考え方をしているように感じます。
 国際化が教育の課題になる昨今、○○人という言葉は何を意味するのか考えてみたいと思いました。

山口 荘一 先生(1979年4月〜1982年3月、2007年8月寄稿)

皆様大変ご無沙汰しています。
79から82年まで派遣されていました山口です。
以下の通り個展を開催します。 是非ご高覧下さい。
ギャラリー2104青山一丁目 青山通り りそな銀行真裏。
会期28日から9月2日です。

神谷 乗仁 先生(1988年4月〜1991年3月、2007年10月寄稿)

 デュッセルドルフ日本人学校同窓会の皆様、1988年〜1991年の3年間、同校に勤務していた沖縄県出身の神谷乗仁です。

 今年2007年、3月定年退職。同年5月31日より、家内(米子)とともにデュッセルドルフで生活しています(約1年間滞在予定)。帰国が1991年3月でしたから、16年ぶりの再来独となります。
 昔と変わらぬアルトシュタットの街並み、ライン河畔の風景に感動の毎日です。ボウヌングは、偶然にも、当時、大変お世話になった中嶋総雄先生のお住まいの近く。この度の入居までの諸手続き等についても、先生のお力を借りることになりました(感謝!)。
 ドイツでの生活を決意した理由は二点。ひとつは、中嶋先生・アニタ御夫妻はじめ、オットー・ヴェヂゲン・コンパニー(ニーダーカッセラー射撃同好会)会員たちとの交流と地域行事等への参加による異文化体験。二つ目には、ドイツ語学習への再挑戦等です。
 この二点を達成するための最大の難関は、何といっても長期ビザの獲得。クリアーするための条件は、かなり厳しいのです。家内とともに学生という身分で申請中なので、週当たり18時間のドイツ語授業を受けることになりました(長期ビザ獲得等エピソードについては、後日、投稿します)。現在、二人とも、毎日、予習・復習・宿題等に追われていますが、中嶋先生のアドバイスを受け、多忙ながらも、充実した日々を過ごしています。とりわけ、週末ごとに、先生御夫妻と飲むアルトビアの味は、格別です!
 私どもが、ドイツ語を学んでいるフォルクス・ホッホ・シューレは、外国人向けのドイツ語研修施設で、私のクラスを例にとると、中国、イスラエル、トルコ、タイ、ブラジル、ロシア、フランス、スペイン、モロッコ、インド、チュニジア、日本・・・と、国籍はかなり多彩です。最年長は、モロッコ人の67歳、そして、私(60歳)と続き、後は、10代後半から30代後半がほとんどです。授業は、ドイツ語のみで進められますので、予習と辞書は欠かせません。時折、先生の質問内容が良く理解できない時、隣のブラジル人やトルコ人が助け舟を出してくれます。実にいい人たちです。つい甘えてしまいますが、国際交流が自然なかたちでできるので、貴重な体験でもあります。
 日々の暮らしについては、ユーロ高なので、円を単位としている私たちにとって、厳しさは否めませんが、日常用品、野菜、果物、食料品等、生活物資は比較的安いので、何とかやっていけそうです。

木野 和也 先生(1999年4月〜2001年3月、2007年2月更新)

デュッセルドルフ日本人学校 同窓会のみなさんへ

好きな言葉ですが、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからズ」の感がします。
でも、同窓会の世話人からメールがくると、少なからぬ恩を受けたデュッセルドルフ日本人学校のご縁を感じて書きました。田中謙次総領事(故人)當田達夫総領事・高畑・城台・山崎理事長の入学式・卒業式の祝辞はすばらしかった。
今回、事務局長の岡田裕さんも去られた。
父母会の方々、柴田・山村・長谷川・脇屋さんのメンバーにはお世話になった。自分が5年前にお世話になり、去った者の一人ではあるが、こうした書く機会を与えられると次々と湧き出てくる。「日々是好日」であった。

 さて、私たち1999年に派遣された教員は、同期会を北海道(河原)沖永良部島(中別府)琵琶湖(木野)と回を重ね、昨夏は、2001年のメンバーと合流し、仙台(今村)で懇親の会。いずれも家族同士の交流で、2泊。来年度は、富士の裾野の静岡(四條)さんの世話。それぞれ、メールで交換して交流を図っています。

 私ですが、2006年3月に36年間の教師生活を引退しました。1年早く終わりました。その4月からふるさと安土町(あの安土桃山時代の安土、信長の夢の城のある安土)の教育委員会で教育長として仕事をしています。どんな町かインターネットで検索していただいても、町財政が逼迫して、HPの更新が3年前からとまっています。でも「教育委員会だより」は9月から出して今、9号です。仕事の一端を見ていただけると思います。
閑話休題
デュセルドルフが大好きな私は、昨秋出版されました(高木常次郎さんの肝入り)「デュッセルドルフの思い出」で紹介させていただき−「世界一のシーラカンス学校」に感謝−という拙文を載せていただきました。感謝。
その前に実は、自費出版で大好きなドイツについて本を出したのです。
「ポケットの石(ダイヤモンド)−ドイツ大好き校長日誌」(文芸社)です。

この本の表紙の石は、ライン川の石です。書くことは、節目をつくることだと考えて書きました。
<安土編>
それでは、安土の紹介です。目で楽しんでください。

通称 江藤邸の桜

大手道の石垣、 伝家康邸
この石積みの技術が平城のさきがけになったということです。

この海抜200m(実際は100mの丘)の緑の頂上に7層の天主が聳え金の瓦が輝いた。

安土城古城博物館の遠景

4、5、6月の土日祝日に外堀を和船で案内しています。この櫓を私もボランティアで!


日本100名城の2つが安土町(12,000人)の町から選ばれました。安土城と観音寺城。
これは秋の「観音寺城イベント」の風景

<最近のうれしかったこと>
教え子のクラス会が30年ぶりにありました。3・4年のクラスです。私が「還暦」であるのを口実に開いてくれたのです。
懐かしい母校へ入って、教室で23名に授業をしてきました。校舎はかわり、面影はありませんでした。あとは懇親会がもりあがりました。
こんな儀式もしてくれました。

以上、メッセージをお送りしました。
<おわりに>
同窓会の方々・日本人学校の方々、ほんとうにありがとうございました。琵琶湖の片田舎でがんばっています。
安土へお越しのときは一報を。木野和也