:::恩師からのメッセージ |
デュッセル便り
今もデュッセルにお住まいの中嶋総雄先生から届いたお便りです。
サンタは二度やってくる(2011年11月22日) サンタは二度やってくる(2011年11月22日)
「サンタは二度やって来る。」 12月6日はニコラウスの日です。ドイツではご存知のように毎日に聖人の名前がついています。11月11日のマルチンの日もその一つです。Nikolausの日は小さな子ども達にとって楽しみの日なのです。その日にはニコラウスが自分の欲しかった玩具やお菓子を持って来てくれるのです。私がドイツに赴任した年のその日の朝のことが思い出されます。隣の家の入口にちょこんと小さな靴の傍にお菓子があったのです。オランダ、ベルギーはドイツ以上にこの日を盛大に祝います。ですからデュッセルドルフのクリスマスの市には両国からバスを連ねて多くの人達 が訪れます。 一方年末のクリスマスに家庭にやって来るのはWeihnachtsmannだとドイツ人は言います。日本の辞書には両方ともサンタ クロースと書かれています。どこかで一つに纏まってしまったのでしょうか。発音からはニコラウスのようですが、調べてみると面白いかもしれません。オーストリア、南ドイツの田舎ではニコラウスは日本のなまはげのような恐ろしい形相をした下僕(Knecht)を従えて家々を回るそうです。贈り物を貰う前にきちんと親の云うことを守ると約束させられるそうです。その風習はベルギーにもありそれがイギリス、新大陸へと伝わって、今日のような形に変わって全世界的な習わしになったのかなと思い巡らしています。何はともあれ二度も贈り物を貰えるドイツの子ども達は幸せです。 日本デーについて(2011年10月16日)
「日本デーについて」 10月15日(土)に第10回Japan-Tagが開催されました。以前にはJapan-Wocheとして1週間でしたが、いまは日本人社会と市と州の共催で一日に集中して盛大なイベントとなっています。そして今年は特に大震災へのドイツ人達からの支援感謝と日独交流150周年ということもあってボランティアの人達も気合が入っていました。Japan am
Rhein(ライン川河畔の日本)と謳っているようにBurgplatzをメイン会場として、Kniebruecke(クニー橋)の近くにある州議会場までのライン河沿いの遊歩道にも多くのテントが張られていました。ブルグ広場の特設ステージでは日本人学校、幼稚園の合唱、日本舞踊、琴演奏等盛り沢山でした。遊歩道では生け花、書道、着付け、折り紙、漫画コーナー等々これでもかというほど繰り広げられていました。またクニー橋の近くでは日本のスポーツの演武です。相撲、柔道、空手、弓道、剣道等々。試演しているのはすべてドイツ人であることには驚きました。 会場のいたるところにアニメのキャラクターの格好をしたドイツ人の若者が大勢いました。実はこの日のためにドイツ各地からいや近隣各国からも彼らがどっとやって来るのです。5年ほど前からインマーマン通りにある日本の書店でマンガ本を買うドイツ人の若者が増え、彼らはコミックに出ているような奇想天外な格好で原宿のような踊りはしないものの散歩していました。そういった背景がデュッセルにはあったのです。コスプレファッション大会があり優勝者にはJALから日本への航空券が出るとあって熱く燃え上がるのです。この日ばかりはデュッセルがドイツでのアニメのメッカになったという感じがします。しかしこの若者の熱気がローカルで留まっているのは惜しい気がします。この機会にどこかアニメの会社とタイアップして原宿(いまでもやっているのでしょうか)の若者達と一緒になるともっと盛り上がるでしょう。 フィナーレは恒例の日本の花火師による花火大会でした。日本の花火独特のドーンという大音響と共に華麗な花火が夜空に広がりました。60万の人達がまた明日への友情を信じて家路につきました。 デュッセルドルフではこの60年年間に多くの日本人が生活してきました。その方々が築いたドイツ人との友好関係が今日までしっかりと根付いていると実感できました。日本人の温かい心の伝わってくるフェストでした。 www.japantag-duesseldorf-nrw.de ドイツの学校制度、フエストについて(2011年9月21日)
「ドイツの学校制度」 ドイツの學校は9月7日が2011年度の始業式でした。ピカピカの可愛い新1年生が身の丈ほどのお菓子の入った円錐状の入れ物を抱えて街を歩いていました。新聞にも関連した記事を見かけました。ここの州では1年生から4年生までのすべての子ども達が就学するGrundschule(基礎学校)の1校あたりの児童数は210.教師一人あたりの児童数は16人で、そこでの女性教員は90%だそうです。 ところで近年問題になっていることは5年生以降の進学先です。以前は3分の一がHauputschule(基幹学校)へ進みすぐに社会へ出ていました。世の中の変化と1990年頃からGesamtschule(総合制学校)が出来ました。ここでは日本の學校のように8年生まで全員が同じ教育内容を受け、そのあと進路を分けるということになります。同時に昔からのRealschule(実科学校)、ギムナジウムもあります。前者は事務系へ後者は大学進学という仕分けです。1990年にはHauputschuleへ進学するものが26%、 Gesamtschuleへは14%でしたがいまは前者に12%、後者19%と年々Hauputschuleへの進学者が減少しています。この国には文科省に当たるものがなく文部行政のすり合わせは州文部大臣常設会議でしています。日本人から見ると各州の独自性が高いと感じます。この新しいGesamtschuleは北部の州が熱心に取り組んでいます。南ドイツや旧東ドイツの南部では昔ながらの学校制度です。共通テスト(ピザ)の結果を見ると南部の方が 高い成績を出しています。しかしこれはこの学校制度からでているのかという検証はまだ出ていません。北部は工業地帯も多くて外国人の住む割合が高いことは事実ですが、それが成績と関連があるのかは軽々に結論を出すことはできません。外国人へのドイツ語教育に力を入れています。その結果かどうかは何とも分かりませんが、サッカーの代表チームの選手の中に親が外国人で幼少のころからドイツに住んでいる人が多くいます。そして彼らがチームの主力になっています。 ドイツでの総合制学校の考え方は日本の教育制度のよいところを取り入れたともいえます。80年代の後半に州の文部関係の人達が日本人学校へ調査に来ました。また日本へも視察に行きました。しかし全国的に広がるのかはまだ何ともいえません。 「フエストについて」 9月17日{土}に市庁舎前の広場で第一回目のChinafestがあるというので出掛けてみました。2年ほど前から中国人の姿を見ることが多くなったと感じていました。いまや進出企業数300、在住者2300人です。北京直行便も飛んでいます。会場には朱色の大きな門とテントが張られて、飲食物、中国旅行案内等がありJapan Tagでもやっている習字コーナーもありました。実は習字には思い出があるのです。1981年の小6生達がLuegalleeにある大きな教会での路上祭りに招待され、そこで歌いその後に習字を披露したのです。これがドイツ人への初めての習字の紹介だったと思います。その後Cecilien Gymnasiumでのクリスマス会のバザーではまだコンピュータ時代ではなかったので漢字タイプライターでの名刺づくりや習字を生徒会が実演しました。1985年頃から日本クラブを中心としたJapan Wocheが5年ほど続き、現在はJapan Tagになって今日になっています。この習字はフェストの定番になっています。フェストの会場はBurgplatzからライン河畔でかなり大がかりなものです。その日の夜には日本の花火が打ち上げられてデュッセルドルフの人達の楽しみの一つになっています。例年は6月の最後の土曜日でしたが、今年は大震災のため延期されて10月15日に開催されます。なお今年当地では中国のほかトルコ、フランスのフェストが開かれました。一番気合が入っているのは日本のような気がします。日本人はお祭りが好きなのでしょうか。 中嶋総雄 ドイツ人と落語(2011年7月28日)
先日面白い体験をしました。それはドイツ人達と一緒に落語を楽しんだのです。ことの始まりはこうなのです。最近私はデュッセルドルフ大学のInstitut fuerModernes Japanへ出掛けることがあります。そこの教授の一人が2期生の島田信吾さんだからです。たまたま日本の教育について関心のある学生がいると私が日本人学校での体験を語るという訳です。その学科で学ぶ学生は500人近くいます。ご存知のようにドイツでは小学生からして落第があるからでしょう、学生は大変真面目で熱心です。大学3,4年生になるとほぼ完璧な文章を作るようになります。話すことは使う場が少ないのでいま一つです。聞く力は備わっています。落語会には150人ほどいました。主催は大学と日本の国際交流基金でした。私は字幕付きの会であると聞いていましたが、果たして落語のテンポと訳文が合うのか疑問を感じながら出かけました。まず三遊亭兼好という師匠が落語の解説をしました。一人で何人もの役をこなすことを身振りを入れて演じました。字幕は師匠の真後ろにあり、大きな字で要点の言葉が出ます。出てきた言葉とそのタイミングがぴったりでした。彼等には理解できる素養があるので要領よく示せば話が途切れずテンポよく進むのです。演題の「親子酒」は全く違和感なく大爆笑でした。日本では外国人にこのようなことはやられているのかもしれませんが私にとっては初めての体験でした。 日本の科学技術にだけでなく古来からの文化を通して日本を知ろうとするドイツ人の若者たちがいることを知りました。毎年ここの大学より10名ほどの学生が日本へ1年間の短期留学をしています。またこの科で学ぶ学生達は月に1度市内のKneipe(飲み屋)に三々五々集まって情報交換と親睦を深めています。面白いのは誰かが取り仕切っている訳でもなくてもいつも50人ほどいます。自分の財布に応じて飲み食べしても日本のようにつまみを取ることもないので1000円程で済みます。私の家の近くなのでちょっと覗くこともあります。そんなとき島田さんの姿も時折見かけます。学生達から親しまれ敬愛されている姿を見るのは嬉しいものです。そしてこのように皆さんが日本を始め世界各地で誠実に懸命に仕事をされていることを知ることは私の誇りでもあるのです。 中嶋総雄 アルトシュタット散策(2011年6月18日)
日本人学校では開校3年目から長い間校外での写生会をして来ました。地元紙には郷土デュッセルドルフを日本の子ども達が描いてくれる喜びの筆致と写真でその様子を取り上げてくれました。今回は中学生達が描いた会場アルトシュタットをぶらぶらとご案内しましょう。あの頃は多くのみなさんは描くことに集中して周りのことに気付かなかったことでしょう。しかし中には遊びに熱中だった人もいた筈です。またそれは楽しい思い出になっているのではないでしょうか。 先ず市庁舎前の広場Marktplatz に Jan Wellen侯の騎馬像(1711年作)があるのはどなたもご存知でしょう。侯は芸術に理解があり、当時有名だったイタリアの彫刻家Grupelloを呼び、彼に作らせました。写生会の人気スポットはSchlossturm(高さ31m)です。 Jan Wellenの居城の一部の名残りで、いまはこの市のシンボルと云えるもので土地っ子の好んで歌う曲の中には必ず登場します。現在は船の博物館とカフエーが入っています。市庁舎のすぐ近く(Burgplatz12)の家の軒下に小さな銅板が填め込んであります。そこにはGoetheが1774年7月20日に泊まったとあり、この家が昔はホテルだったことが分かります。ゲーテに関するこのような表示はドイツの他の都 市でもよく見かけます。 市庁舎の横Zollstrにある小さなレストランEn de Canon(1639)にはJan Wellenがお抱えの芸術家たちと食事をしたと云われています。またここが都市間を結ぶ郵便馬車の発着場でした。Bergerstrの角には250年の歴史のある醸造所直売のビヤホールUerigeがあります。いつも大勢の人で賑わっています。なおアルトシュタットでビールを醸造しているのはここの他Schluessel,Fuechschenだけです。そばの小道Hafenstr にはいると Zum Schiffenというレストランがあり、そこで1811年にナポレオンが食事をしたことで有名です。 アルトシュタットの目抜き通りBolkerstrよりちょっと入っ
たMerkensgasse25の香辛料店は創業1726年です。ゴッホの静物画の画材の辛子入れの壺にこの店の商標ABBが描かれています。アムステルダムの美術館で発見したときにはビックリでした。当時の流通が意外なところで顔を出すものです。またちょっと先のAndreasstrには昔修道院だったところを改装したレストラン Tante Annaがありその古い佇まいに惹かれてモチーフにしている人が多かったようです。 整理整頓、物持ちのよい人は中学生時代に描いた絵が手元にあるかもしれません。お持ちの人は立派な額を買って飾ると部屋が一段と輝くでしょう。額でなくて絵がです。いつの日にかまたデュッセルドルフを再訪してみると、中学生時代と違った新しい発見があるでしょう。4期生のみなさんは2005年に大挙してお見えになりました。みなさんもいかがですか。 Viel Spass ! 中嶋総雄 日独交流150周年と女子サッカー世界選手権大会(2011年5月26日)
1861年1月に江戸において日本とドイツ(当時のプロイセン)との間で修好通商条約が調印されました。その翌年に条約にともなって幕府は文久外交使節団36名を派遣しました。その中には通詞として若き日の福沢諭吉がいました。彼らは1862年6月21日オランダ経由でデュッセルドルフに到着して昼食後ケルンに向かったと記録されています。何しろ武士ですから袴に刀を差し、草履ばきでデュッセルドルフ日本人第一号の人達は目立ったことでしょう。なお当時の駅はGraf-Adolf-Platzの近くにありました。 NRW州では交流150周年を記念していろいろな行事を組んでいます。ただ大震災のため賑やかな祭りは中止されました。文化的な行事の中で「ルール地方における日本人炭鉱労働者」という演題で日本人学校2期生の島田信吾(デュッセルドルフ大学教授)さんが講演されました。その内容は次のようなものでした。1957年から65年までの8年間に436名の日本人炭鉱労働者が三池、田川、夕張等からルール工業地域に派遣されました。当時の日本は炭鉱での採掘技術の向上と石炭から石油へのエネルギー転換に取り組んでいました。一方ドイツでは炭鉱労働者が不足していました。それに呼応しての派遣でした。25万人の労働者の中から選抜された方々だけにその優秀さを示してドイツの生産性向上に寄与したということです。 女子サッカー世界選手権が6月26日から7月17日までドイツで開催されます。親善試合も組まれて徐々に盛り上がっています。ドイツはこれまで2回2003,2007に優勝しています。今年のドイツチームは世界ランキング2位です。優勝候補はスーパースターであるマータのいるブラジルです。日本もノミネートされた国ですから当然優勝の可能性は大です。 Aグループ Deutschland,Kanada,Nigeria,Frankreich Bグループ Japan,Neuseeland,Mexiko,England Cグループ USA,Nordkorea,Kolumbien,Schweden Dグループ Brasilien,Australien,Norwegen,Aquatorial-Guinea ドイツのリーグで活躍している永里は調子は上々で良い結果が期待できそうです。予選を日独チームが1位で通過すると決勝まで対戦することはないようです。そうなるように祈っています。 中嶋 総雄 Ich wuensche mir
mehr Gelassenheit.(より多くの冷静さを!)(2011年4月4日)
このことばは神余ドイツ大使がドイツのメディアに向けて語ったものです。私にはヨーロッパの人々への警告ようにも思えるものでした。私の最近の気持ちを代弁してくれたともいえます。欧州の環境団体グリーンピースからの放射能に関する情報が多くなるにつれて人々の不安が高まってきたように感じていました。因みに先頃のドイツ3州での地方選挙では原発全廃の政党が大躍進しました。そういうとき大使として当然なことをしているのかもしれませんが、日本がいま取り組んでいることを色々な例を挙げてきちんと語っていました。私の在欧中で大使がしっかりと意見を表明され、それを読むのは初めてです。この苦境の時だからこそ発言されたのでしょう。勇気付けられました。なお神余大使は以前デュッセルドルフの総領事でした。 一歩一歩よき方向へ進むよう祈っています。 中嶋総雄 Maibaumについて(2010年5月5日)
ハイネが「美しき五月」と讃えたように人々は五月が来ることを待ち望んでいるようです。デュッセルドルフでは4月30日に多くのレストラン、KneipeではTanz in den Maiと称して陽気な音楽を奏でて愉快に過ごします。その催しをしている店の入り口には白樺の若葉が飾ってあるので直ぐそれと分かります。 その日モンシャウのようなアイフェル地方の田舎ではMaibaumを立てる慣わしがあります。長い厳しい冬から解放され待ちに待った「うるわしの五月」を迎えるシンボルが五月柱(メイポール)といえましょう。私は長い間そのMaibaumを立てるところを見たいものだと思っていました。今年その現場に立ち会うことが出来たのです。そこはオーストリアのグラーツの近くの田舎でした。村の広場の中央に15mほどの大木が寝かされ、立てるときに必要な支え棒が紐で繋がれていました。機械を使わず人力で立てるのです。20人の男たちが徐々に角度を上げて行きます。45度ほど傾いたところで、ビールとワインが振舞われました。1時間ほどで堂々と垂直に立ったときは拍手と楽団の演奏が一段と高くなりました。村人は木の周りで踊っていました。昔からの習慣で翌朝の6時までは誰か見張りをしなければならないそうです。昨年は見張り役が酔いつぶれてしまい、隣村の若者によって切り倒されてしまったそうです。今年は翌日無事に広場に立っていました。 マルチン祭について(2009年11月13日)
11月11日はMartinstagです。 しかしデュッセルドルフはカーニバルの幕開けの日と重なっているので、Altstadtでは前日にマルチン祭の行列が市庁舎前に到着します。子ども達の手作りのLaterneちょうちんがゆらゆらと揺れて子ども達の歌声が聞こえてきます。 Sankt Martin, Sankt Martin, Sankt Martin zieht die Zuegel an, das
Ross steht still beim armen Mann 慈悲深い聖マルチンが貧者にマントを切り与える儀式の前に、市庁舎内ではラタルネコンクールの学校賞と個人最優秀賞の授与式行われています。日本人学校はこれまで何度も両賞を受けていることはご存知の通りです。子どもたちは商店へ繰り出しお菓子を貰います。そしてレストランにはGaensebratenがちょうのローストが出ています。添えられた赤キャベツと栗の味が秋を感じさせます。何故がちょうかというと、その昔マルチンが世俗的なことから逃れようとして隠れていた所をがちょうが騒いで教えたという故事に因んだものです。 それにしてもこの10年間で気候がすっかり変わってしまいました。雪が降ったりといった厳しく冷え込んだ日々が懐かしいほどです。 6月の気象について(2009年7月2日)
いまや地球の温暖化はどこでも大きな話題になっています。ドイツでも私が赴任した1972年頃と今とは大きな違いがあります。当時は凍結のため路面電車の運行が止まったり、Zoo-Parkの凍った池で遊んでいて落ちた生徒がいて大騒ぎしたことがありました。ドイツも季節に応じた風景が失われているような感じです。 ところが不思議にEisheiligeとSchafkaelteの2つは決まってやってきます。前者は日本の辞書に載っているように5月10日頃の3日間の寒い日のことです。ご存知のようにドイツでは毎日キリスト教の聖人の名が付いておりそれに因んだものです。 マルチン祭といえばどなたもその日を思い起こすでしょう。もう一つのSchafkaelteは6月中旬にやって来ます。辞書には以下のように書かれています。 Schafkaelte: haeufig zw.dem 10.u.20.Juni(Zeit der Schafschur) auftretende Kaelte durch Einbrueche kuehler Meersluft nach Mitteleuropa. もう一つ思い出しました。6月27日のSiebenschlaeferのことです。この頃雨が降ると7週間曇天になるというものです。以上いずれも農家の暦に載っているものです。 Veedelszochについて(2009年1月30日)
今年のローゼンモンタークは2月23日です。その前日の日曜日にはニーダーカッセル地区のカーニバルの行列があります。この行列への第一回の参加は1987年で、16期生が小学3年生のときでした。当時のお母さん達から子ども達を現地の伝統的な行事に参加させたいとの要請がありました。その頃日本のアニメ「蜜蜂マーヤ」がテレビで放映されており、チェコ出身の人気歌手カレル ゴットの主題歌と共に巷でマーヤは大人気でした。可愛らしいマーヤ達150名が突然ニーダーカッセルに登場したのですから大拍手で迎えられました。終った後の反省の中に「飴を強く投げる」という声もあり、次の年から小学2年生に受け継がれました。お母さん達の自主的な活動として今日まで続いています。 ところでカーニバルの行列で、市の中心以外のものをVeedelszochといいます。これはデュッセルドルフの方言です。Veedelというのは標準語のViertel(地区、街)、zoch はzug(行列)を意味します。Veedelszochが出るのはEller, Gerresheim, Reisholz, Niederkasselです。なお方言といえば、カーニバルの期間中のモットーが1928年から毎年カーニバル委員会が一般公募しその中から一つ方言で書かれたものが発表されます。今年のモットーは「Do bes de platt」です。何方か解き明かして下さい。 Helau ! デュッセルドルフの景観(2008年9月23日)
ドイツでは皆さんご存知のように、地域ごとに家の高さ、色などが規制されています。例えば、学校の前の家並みは開校当時と全く同じです。もし改築する時は、もとの外観を残すことになります。 キルメスがやって来る(2008年7月9日)
デュッセルドルフに住んだことのある人は、一度はキルメスに行ったことがあるでしょう。正式な名称は「Groesste Kirmes am Rhein」といいます。今年は第107回目で7月12日(土)から20日(日)までです。 カーニバル(2008年1月17日)
今年のカーニバルのハイライトであるローゼンモンタークは2月4日です。この日の基準となるイースターが今年はいつもより早めのため、カーニバルのシーズンも短くなってしまいました。 サッカー情報(2007年12月14日)
サッカーファンのみなさんへ デュッセルドルフの年末風景(2007年11月26日)
ドイツのクリスマスの市Weihnachtmarktとして有名なのはご存知の通りニュールンベルグのものです。しかし最近では各都市で開かれています。 |
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